a divana comédia
1991年、葡
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
出演:Maria de Medeiros
Miguel Guilherme
Luís Miguel Cintra
一言でいうならば、コテコテの西洋精神史絵巻というところだろうか。「アダム」と「イヴ」、「イエス」と「パリサイ人」、「マリア」と「マルタ」と「ラザロ」、白紙の第五福音書をかかげる「預言者」、ニーチェや反キリストを下敷きにしたアンチ信仰の徒たる「哲学者」、「ラスコーリニコフ」と「ソーニャ」、そして「イヴァン」と「アリョーシャ」のカラマーゾフ兄弟を一つの空間になげこんで、それぞれを対話させてしまうという映画である。ついでに、精神病院の院長とその助手、ラスコーリニコフに殺される老姉妹もでてくる。
よくやるなあと正直思った。ヘタをするととんでもなく陳腐になってしまいかねない舞台設定である。けれども、まず舞台を精神病院(といっても瀟洒な建物だが)にすることで、現実から隔離されたメタな空間設定がなされている。それから、役者たちがそれぞれの役柄に徹して、すでに書物で語られたセリフを忠実に迫真の演技で語りなおすから、見ているうちにぐいぐい引き込まれていく。あと映像の美しさや、舞台を意識した画面構成、さいごに映画的虚構であることを強調する仕掛けなど、かなり緻密な計算と気配りとがなされていて、知的な印象を受ける映画である。こうした出来のよさが陳腐に陥ることを防いで、それなりの見物に仕立て上げられているのだろう。
内容的には、男と女、肉体的な愛と信仰、信仰と知、精神と肉体、善と悪、英雄と貧しき者、傲慢と謙虚、科学と信仰、等々、二元論的極限形態の対抗関係が、それぞれの登場人物の口を借りて表現されている。いわば西洋思想のコラージュだ。試みはおもしろいと思うんだけど、いまひとつ心が揺さぶられるほどの感動とかはなかった。ちょっと出来すぎなのかも。以下、おもしろかった場面のだらだらとした列記です。
まず、イヴがイエスに出会うと、誘惑する女から突然「聖女テレサ」になってしまい、アダムがオタオタしてイエスに文句をいいにいく、という設定が笑えた。また哲学者がねっとりしたイヤミな人物に描かれていて、イヤラシサ具合ではパリサイ人を断然抜いて、かなりいい味をだしている。ソーニャはちょっと小悪魔的すぎるかんじだけど、可憐でいじらしくて、トンデモ理論の持ち主ラスコーリニコフとの対話のシーンは、この映画の見所のひとつだろう。
それから、皮ジャンにジーンズをはいたイヴァン・カラマーゾフが、バイクで病院に乗りつけるのはなかなかかっこいい。大審問官物語を完成させて、アリョーシャに聞かせにくるという設定だ。いちおう、大審問官物語の場面がこの映画のハイライトだけど、映画の趣旨に照らすならば、大審問官御大を登場させなかったのは物足りない。ドストエフスキーの原作においては、大審問官はイヴァンの部分的分身であると思うが、映画ではそこまでは読み込めない。せっかくイエスを登場させているのだから、ぜひ実写で、大審問官VSイエスをすればよかったのだ。そうすれば、権力と信仰、彼岸の王国と此岸の王国という二極論的大問題もつけ加えることができただろう。まあ、ハイライトのわりにはちょっとこの場面はショボイんだよね。イヴァンはかっこいいけど、あのヒゲ面メガネのTVディレクターみたいなアリョーシャはないだろ〜。アリョーシャらしいところがほとんど表現されてなくて、個人的にはがっかり。
あと精神病院の院長ね。これは近代科学の代表者でしょうか? もはや信仰もなく、最後は自殺して、宙ぶらりんに浮いているのが象徴的だ。まあ近代人なんて宙ぶらりんな存在なんだろうけど、院長を殺してしまうあたり、オリヴェイラ監督の信条があらわれてるのかな、と思ったりして。
(05.jan.2005)
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