ノン、あるいは支配の空しい栄光

Non au a Vã Glária de Mandar
1990年 葡・仏・西
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
出演:ルイス・ミゲル・シントラ
ディオゴ・ドリア
ミゲル・ギレルメ


 オリヴェイラ監督の映画で見たのはこれが二本目である(一本目は『神曲』)。意欲的で哲学的な映画を作る人だなという印象はますます強まった。この監督が好きかどうかはまだよく分からないのだけれど、1908年生まれでなお現役で映画を撮りつづけるその姿勢にはひたすら脱帽する(しかも毎年一本! 生産力高すぎだよ)。
 「ノン、あるいは支配の空しい栄光」は、オリヴェイラがポルトガル史を通して「敗北」を描こうとした作品。ポルトガル史そのものについては、ヴァスコ・ダ・ガマを除いてほとんど知らないことばかりだった。おそらく、この「知られなさ」というのは「敗北」と密接に関連している。「敗北」はグランド・ヒストリーから排除されていくことであるのだから。
 以下、かんたんなあらすじを述べておく。
 
 まず、国連の勧告に反して植民地を手放さそうとしなかったサラザール軍事政権によって、植民地維持のためアフリカに送り込まれたポルトガル兵士たちが登場する。この小隊を率いる陸軍中尉はかつて大学で歴史学を研究していたという人物であり、彼が部下たちに向かって、任務の合間にポルトガルの「敗北」の歴史を語るというスタイルが取られている。
 「敗北」の歴史は4つ。1つ目は、紀元前、古代ローマと闘って敗れたルシタニア部族の話。2つ目は、王子の不慮の死によるポルトガル王国建設の頓挫(誰か忘れた、、、あとで調べます)。3つ目はドン・セバスチャン王が、モロッコの内紛に乗じて始めたアルカセル・キビールの戦い。このとき、行方不明となったドン・セバスチャンは、いつかポルトガルの解放のために戻ってくるという「伝説」の人物なのだという。この「伝説」は映画の最後で効果的に用いられている。ついでにいうと、それぞれの「敗北」の歴史には、物語を語る例の中尉が出演している。
 最後に4つ目として、現在(1970年代当時)の国際的孤立のもとで植民地政策を遂行するポルトガルの「敗北」を、ゲリラと衝突した中尉たちが「実演」していく。爆音や、何分も続く機関銃の発射音だけが密林のなかで延々に響き渡る。それから、負傷した小隊の兵士たちは軍のヘリで病院に運ばれ、ある者は足を失い、ある者は顔面を包帯で覆われてベッドの上に横たわる場面が続く。中尉はここで最期を迎えるのだが、その苦悶の死を、顔面を包帯で覆われた負傷兵の目が凝視する。映画の末尾に近い後半部分は、それまでの中尉たちの饒舌な語りと比べて、話し声はほとんど消え去り、一切が沈黙のうちに終わってしまう。後半の異様な緊張感をもった展開は、必見である。
 中尉の最期は、敗北の歴史の幕でもある。彼の夢のなかに、アルカセル・キビールの戦いの敗北のあと、死体が累々とつづく平野に、「支配の空しい栄光」を「ノン」という否定語でもって語り自害する老人が登場する。映画のハイライトともなる部分であり、オリヴェイラが語りたかった部分だろう。
 『神曲』をみただけで、オリヴェイラについては何も知らないが、彼の作品にはニーチェやドストエフスキー、実存主義の影響が色濃いように思うし、二極論的思考が強い。ここで言われるNONも、「支配の空しい栄光」を否定したり批判したりしているというよりは、ある意味普遍性をもった「絶対否定の極致」をさす言葉なのではないかという気がする。もう少し踏み込んで言えば、NONという言葉の発話行為のなかに、歴史や運命の不確定性に翻弄される人間が、拒絶の意志と精神をもつ存在でもあるという、ぎりぎりの存在意義を収斂させているのではないかと思った。その言葉は、表舞台から消され、沈黙のうちに葬りさられていく大半の歴史を掘り起こしていくときに、また、そうした狭い回路を辿ることによってのみ、浮かび上がってくる文字なのだろうし、監督が映画を通して浮き彫りにしたかったテーマそのものかと思われる。
 最後、伝説の王セバスチャンが登場し、剣の切っ先を自らの腹にさして自害する場面は、「ポルトガルの解放」と1974年のカーネーション革命とが重ねられている演出である。映画を終えるためのピリオドは一応打たれている。しかし、NONという言葉がポルトガル史の枠を越えるものである以上、ピリオドは永遠に打たれることはないのだろう。
(27. jun. 2005) 


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