真夜中の映画鑑賞

 かたやきポテチ、ハム、漬物、ビール、それにニューヨーク風チーズケーキと珈琲を用意して、真夜中の映画鑑賞を敢行。見たのは、友人に借りっぱなしの「ミッション・インポシブル2」。ビールは、プレミアム・モルツ→エビス→モルツ→プレミアム・モルツ→以下同で消費されていく。ダイエット道的には、けっしてやってはならない真夜中の飲食で、おかげさまで今朝の気分はサイアク。しかし、夜中の段階では、酔っ払って見たからか、映画がすごくおもしろかった。なんか大げさで。ニヤけた笑顔のすてきなトムのイメージビデオみたい。ちなみに「1」は見ていない。「2」でこれだけおもしろいんだったら「1」はもっとおもしろいのかな。
 監督はジョン・ウーだったのね。映像はすごくおもしろかった。フラメンコの足裁きや、階段を駆け上がる足を延々映して、足や手先だけで表現するところはうまいなあと思った。あと製薬会社の社長がトム扮する博士に向かって、「この亡命ロシア人め!」と叫んだところが妙にツボ。個人的に今、亡命ロシア人が気になっているので、そういうセリフまわしが出る背景が気になる。しかしこれはもしかしたら、ものすごくピンポイントでマニアックな関心かもしれない。
 

真夜中の映画鑑賞」への16件のフィードバック

  1. nozaki

    おもしろかったのはたぶん酔っ払って観たからです!
    私はミュンヘンの映画館で見ましたが、「1」のスリルを期待して行っただけに肩透かし食いました。なんかカンフー映画になっちゃったみたい。でも亡命ロシア人というツボがあったなんて知りませんでした。そういう楽しみ方もあるんですね。
    ちなみにオリジナルのTVシリーズファンの私としては、TVシリーズを踏まえつつ、見事に裏をかいてくれた「1」が大好きです。プラハのロケもいい。前にプラハ旅行したとき、カフカのプラハではなく、『ミッション・インポッシブル』のプラハだなーとか思って妙な感慨にふけっていましたが。続編の「3」は、ベルリンで撮影することになって、ここ数年騒いでいるんですが、なかなか始まりませんね。大いに期待できます。

  2. kiryn

    >おもしろかったのはたぶん酔っ払って観たからです!
    あれー? 話がどんなだったかもう思い出せないんですけど、なんかすごくおもしろかった記憶があるんですよね。「15分ごとにマヌケな笑顔」をみせるトムが、能天気なラブストーリーに向いている顔なのに、すごいアクションを延々やってて、なんかわたし今ソフト・ゲイ・ポルノを見てる?みたいな気分でした。
    亡命ロシア人のツボは、あまりに個人的なシュミなので映画の本筋とは関係ないですよね〜。でも最初に登場してきた博士の名前がロシア人風だったので、もしや亡命ロシア人では?とにらんでいたら、「この亡命ロシア人め!」と罵倒されていたのでちょっとウレシクなったのでした。
    「MI」も例に漏れず、やっぱり「1」がおもしろんですね。プラハかー。やっぱカフカのイメージが強いかな? あ、でもプラハも亡命ロシア人のメッカのはずです。ついでにベルリンも・・・。

  3. nozaki

    「ソフト・ゲイ・ポルノ」というのは、当たっています。でもトムの場合、あのにやけた顔が、にやけてられなくなるような状況になる映画がおもしろく出来てますけどね。
    プラハも亡命ロシア人のメッカだったんですかー。知らなかった。シナゴーグは熱心に見たのに。ベルリンは、1920年代からロシア人があふれてますね。ラジオとかロシア語放送もあります。

  4. kiryn

    >「ソフト・ゲイ・ポルノ」
    トム、ごめん・・・。
    個人的にはプラハはあまりいい思い出ありませんの・・・。期待値は高かったんですけど、そう何日も滞在するところじゃないと後悔した覚えがあります。旧共産圏の印象が強かったです。ドイツに戻ってほっとした覚えがあります。
    プラハもロシア革命後にたくさんの亡命ロシア人がやってきた地で、「東のオックスフォード」とかなんとか言われたらしいのですよ。そういうことが書いてある本を最近入手したのですが、いかんせん読む暇が・・・。
    >ベルリンは、1920年代からロシア人があふれてますね。
    ベルリンは19世紀末からかなりのロシア人が来ていたはずです。留学生と社会主義者・革命主義者が多かったようですが。20s以降だと、貴族やブルジョワジーが多くなるのでしょうけれど。

  5. nozaki

    プラハは観光地として商業化されすぎていて、観光客と日常の生活者の世界がはっきりと分けられているという印象でした。ドイツだと、観光客もそのまま地元の人の中に馴染んで、気軽にその辺で安上がりに食事を済ませることもできるんだけど…。言葉が通じないこともあるのかなー。
    プラハも亡命ロシア人の地だとは知りませんでした。
    >ベルリンは19世紀末からかなりのロシア人が来ていたはずです。
    ユダヤ人も東の方から大量に流れてきていますよね。そういう人たちの文化がどういうかたちで残っているかは興味深いですね。
    そういえば、ナボコフって短期滞在していたのかと思ったら、十数年もベルリンに住んでいたらしくって、でもドイツ語全然話せなかったんだって、最近本で読みました。

  6. kiryn

    nozakiさん
    >観光客と日常の生活者の世界がはっきりと分けられているという印象
    そうそう、そんなかんじでした。ホテル代はドイツより割高で、朝食はイマイチだったのでなんだかなーと思いました。スーパーでは野菜や果物がほんとに少なかったし、輸入物のジャンク菓子のほうが地場産のワインより高かったのもびっくりした点でした。観光地として割り切ってしまえば納得いくことも多いのですが、正直早くドイツに帰りたいと思ってました。
    言葉は通じませんでしたー。すぐ隣の国なのに、スラブ語圏なんですよね。これもストレスの原因だったかも。『存在の耐えられない軽さ』の舞台ではあるのだが・・・。
    >ユダヤ人も東の方から大量に流れてきていますよね。
    そうですよー。19世紀末からのロシアでのポグロムがすさまじかったから、玉突き現象で西方に移住してますものね。
    >ナボコフって短期滞在していたのかと思ったら、十数年もベルリンに住んでいた
    きたきたナボコフ! やっぱ『ロリータ』でアメリカの亡命ロシア人という印象が強いですよね。でも短編集ではベルリンの話もあったような気が。そっか、彼ドイツ語苦手だったんですね。でもフランス語は堪能だったんでしょうねー、きっと。
    しかし、『ロリータ』はすごいです、、、なんとゆーか、妄執の匂い立つ濃ゆさで、ぐつぐつ煮込んだすっぽん鍋みたいな・・・。

  7. nozaki

    私は運良く、安いペンションみつけることができました。簡素でしたが、悪くなかったです。
    そういえばスーパーは入らなかったなー。パン屋さんは、結構しゃれている店が多かったです。菓子パンとか種類も豊富でおいしいかった。
    文字を見ても、名前とかぜんぜん頭に入らないのが、とにかく困りました。
    ナボコフって、ベルリン時代に長編も何本か書いているようで、舞台もこの街だったりするみたいですね。『贈物』(?)とか…。
    『ロリータ』は映画しか見てないです。キューブリック版は、原作からずいぶん作りかえられているそうですけど、そうなんでしょうか?でも、主役の女の子の「ロリータっぽさ」から言ったら、リメーク版より、キューブリック版の方がずっとはまっている気がします。

  8. kiryn

    nozakiさん
    プラハも、それこそ20c末のビロード革命にいたるまで、歴史の重層性がすごい街なのでおもしろいはずなんですが、、、一介の観光客にはムカつくことが多かったです。ひどい人種差別もされたし。ドイツでは経験ないことだったので、プラハは社会的に余裕のない国だという印象が強まってしまいました。まだEUが東にまで拡大していなかったころだし、西側との経済格差を肌で感じました。これはこれで貴重な体験なんですけどね。
    それから、ナボコフで話をつなげてくれてありがとうございます!
    そういやわたし映画の『ロリータ』みてないです。キューブリック版ありましたねー。リメイク版のハンバート・ハンバート役がジェレミー・アイアンズというのは、個人的にはイメージぴったりなんですが。ロリータ役の子は、なんともいえないですが。
    映画だと「第三者」(観客)の視点から見るから、また別の感想になるかもしれないんですけど、小説だと主人公の一人称で物語が展開します。ハンバートの内面の過剰さ・臆病さ・繊細さ・ずる賢さ等々、これでもかといわん筆致で書かれていますが、わたしはどうしても、ハンバートの視線を通して語られるロリータの心の苛立ちが目についてしまって、ロリータの一人称で語られたらどういう物語になっていたんだろうと想像してしまいます。

  9. nozaki@年賀状思案中

    チェコはそれでも昨年EUに新加盟した10ヶ国の中では、まだ豊かな方だと思います。
    歴史的建築なんかドイツの都市とは比べ物にならないほど、豪華なものがあるのに、社会主義の染みつき方は、旧東ドイツとはまた違った濃さがある。
    それにしてもキューブリックを丹念に見ているkirynさんが、『ロリータ』を観ていなかったとは意外でした。
    キューブリック版は、なんといってもClare Quilty役のピーター・セラーズの存在感が強烈で、原作から逸脱しているのではないかな、と想像してしまいます。
    ロリータによる一人称小説って面白そう。内面が読めない謎めいた存在としてあるからこそ、ロリータに惹かれてしまうわけで、それを裏返したら思いもつかないものが見えてくるかもしれませんね。『ロリータ自身によるロリータ−−恋愛のディスクール』とか…。

  10. kiryn

    nozakiさん
    年の瀬ですね。わたしは年賀状書きにはもう飽きてしまい、残りは正月に書こうと放置してます。一気にやらないと無理ですー。
    >社会主義の染みつき方は、旧東ドイツとはまた違った濃さ
    これはまたなんだかすごくおもしろそうな指摘ですね。お時間があれば、もっと詳しく語ってほしいところです。
    チェコと東独のみならず、旧共産諸国はソ連や共産主義との距離の取り方にそれぞれ独自の路線があったんですよね(映画だと、クストリッツァの『パパは出張中!』で、その微妙な間合いを描いていました。ユーゴスラヴィアの話でしたが)。「社会主義の染みつき方」は、そういうことが関係してくるのかなあと漠然と思いました。
    いつか、ポーランドやハンガリー、バルト三国あたりも旅行してみたいです。ハンガリーってルカーチの出身国だし。
    >『ロリータ』を観ていなかったとは意外でした
    いやいや、キューブリック、見ていないの多いですよ。これも一気に見ないとダメですね。『シャイニング』とか見てないし・・・(多分見ない)。しかしナボコフ+キューブリックって、想像しただけでも異様な濃ゆさだわ。でもキューブリックって全般的に、女性の描き方がヘタというかステレオタイプになりがちというか、妙に気後れしている印象があるんですよね。彼の場合だと、「ロリータ」を描きたいというよりは、やはり「ハンバート・ハンバート」の気狂いっぷり(クレア・キルティ相手の執拗なまでの言葉遊びとか?)を描きたかったのかな、という気がします。ポランスキーならその辺、執着をもって「ロリータ」を描きそうですが。
    ロリータによる『ロリータ』−−ハンバートが作り上げた世界の中心に占めるロリータを、ロリータ自身がどう見るのか、どう距離をとるのかというズレが見えるとおもしろいかな? ハンバートも、理想化したロリータと現実のロリータのズレを必死に修正しようとしていますものね。
    ・・・って思わず妄想に力が入ってしまいました。ヘタに手を出すと、陳腐なものしか出てこないコワいテーマです。

  11. nozaki

    > ハンガリーってルカーチの出身国だし。
    kirynさんはルカーチも好きなんですか(びっくり)?『小説の理論』なんか、いくら読んでもわからなかった。そういえば友人でモホリ=ナジからハンガリーに興味を持ったひともいました。あの辺の芸術家・知識人はみんな友達なのかな。
    『シャイニング』は意外と見てないものですよね。私は、去年は映画祭がらみで特集組んでいたので、キューブリックは結構まとめて観ました。初期のものはなかなかいいですよね。
    女性の描き方が下手というのは、たしかにそうですねー。

  12. kiryn

    >kirynさんはルカーチも好きなんですか(びっくり)?
    好き好き!大好きです。
    まさにその『小説の理論』にしてやられたクチです。
    ま、この本未完ですけどね。
    「小説は神に見捨てられた世界の叙事詩である」とか
    「俺は俺の魂を確かめに行く(I go to prove my soul!)
    」とか、印象にのこるフレーズも多かったです。
    近代小説はみな、犯罪と狂気を扱っているとする点で、ヘルツォークの映画とものすごく似ていると思いました(「アギーレ」のレヴューで引用しました)。ルカーチ自身は、ドストエフスキーを念頭においていたんですけどね。
    バウハウス系は気になりますねー。展覧会とかあればできるだけ見に行くようにはしているけど。
    >あの辺の芸術家・知識人はみんな友達なのかな。
    たぶん狭い世界だろうから、可能性高そうですね。ベラ・バラージュはルカーチと知り合いですが。『視覚的人間』も持ってるだけで読んでないなー。映画論って実はほとんど読んでいない…かも。

  13. nozaki

    > 「小説は神に見捨てられた世界の叙事詩である」とか
    ああ、ぼんやりと思い出してきました。「故郷喪失の文学」なんだとか言ってましたねー。故郷失ったというよりもホームレスのことじゃないかなんて、ドイツ語つき合わせてにらめっこしていたような記憶が…。あまりに難しいので、後半の方は記憶が飛んでます。ルカーチはどのあたりから「小説」が始まったと考えていたんでしょうかね。ドン・キホーテ?
    > ベラ・バラージュはルカーチと知り合いですが。『視覚的人間』も持ってるだけで読んでないなー。
    バルトークなんか同世代かしらと、考えていたんですが、バラージュはたしかにルカーチの友達ですね。『視覚的人間』はサイレント映画のクローズアップ論という印象が強いです。繊細な分析というより、明快な理論書という感じで、読んでて気持ちがよかったです。でも訳題はどうなんでしょう?ヴィジュアルな人間じゃなくて、ヴィジィブルな人間のことですよね。けっこう気になります。

  14. kiryn

    nozakiさん、こんばんは。
    『小説の理論』、邦語で読んでてドイツ語では読んでません、、、たしかに、ところどころ意味がわかんない訳だったりしてますね。ちょっと見直してみて、自分でも結構勘違いしていたことに気づきました。とりあえず、ドストエフスキー論のさわりってだけで、「近代小説」の形式を越えたところにドストエフスキーをもっていこうとしていたようですね(で、頓挫したままらしい・・・)。
    近代においては、人間の内面性と外部世界とを牧歌的に一致させていたギリシア的「叙事詩」時代がもはや回帰することはなく、内面と外的世界が分裂してしまう。その結果生み出されたものが「小説」という形式だ、という話でした。
    ドン・キホーテは、自我が外部世界にむかって働きかけようとするけれども、内面と外部の調和がもはや保たれない時代であるがゆえに、その行動は混乱を極める、という事例で挙げられていたようです。
    んでもって、ベラ・バラージュ。ちょっと手にとってみると、『視覚的人間』は短いエッセイ集だったんですね。たしかにDer sichtbare Menschだから、「視覚的人間」ではなく「可視的人間」? 
    サイレント時代の映画だから、文字や概念の文化と対比させて、顔や表情や肢体の表現力に焦点をあてることも斬新だったんでしょうね。
    der sichtbare Menschは、der denkbare Mensch, der lesenbare Mensch(といっていいのかな?)に対峙しているかんじですね。
    バラージュは1884年生まれだそうですが、だいたい80年代以降に生まれた人が映画論を論じはじめるのかなー。それ以前に生まれた世代はあまり論じていないような気がします(ジンメルとか)。世代の差なのかな。ま、わたしが知らないだけで、実はいるのかもしれません。 

  15. nozaki

    kirynさん、こんにちは
    私もドイツ語は覗いてみた程度で、読んだといえるほどでもないです。『小説の理論』は、何語で読んでもむずかしー。
    ドストエフスキーは面白いけど、理論的なとっかかりになるような本が少なくて、バフチンくらいしか、しっくりくるものがなかったです。
    > バラージュは1884年生まれだそうですが、だいたい80年代以降に生まれた人が映画論を論じはじめるのかなー。
    そういう世代の問題は大きいですね。83年生まれのカフカもそうだし、みんなあのあたりですね。だいたい1900年から1910年代にかけて20歳代で映画を体験した人ですね。
    マンガ世代とかテレビ世代とかファミコン世代というのと同じですね。ジンメルは、1910年代に亡くなっているから映画を論じるには歳をとりすぎていたと思うんです。

  16. kiryn

    nozakiさん、こんばんは。
    >ドストエフスキーは面白いけど、理論的なとっかかりになるような本が少なくて、バフチンくらいしか、しっくりくるものがなかったです。
    バフチンですかー。『詩学』は手にとってみるものの、とっつきにくくて未だに読まずじまいです。言語学だ難しそう、と構えてしまうからダメなのかな。
    >だいたい1900年から1910年代にかけて20歳代で映画を体験した人ですね。
    おおー、なんとなく感じていた世代論はそんなに的をはずしていませんか。よかった。1900−1910年の段階では、映画はブルジョア階級からすれば相当胡散臭いか、労働者階級の娯楽とみなされていたのかもしれませんね。ジンメルあたりの世代なら、映画館より劇場に足を運んでいそう。

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