「第3章 隔たり」より
科学技術の複雑化を伴う世界、それに対抗しうる潜在性を美的領域、芸術の機能にみる。読んでいると、「雲」の喩えが出てくる箇所には、重荷を下ろしたときのような自由を感じた。
「カントは『判断力批判』では想像力を提示Darstellungの能力とか力とかと呼び、表象Vorstellungの能力とか力とかとは呼んでいません。・・・現象を理解可能なものにするためには「私は考える」が必要でしたが、提示の働きはもはやこの「私は考える」を必要とはしていないと言えるでしょう。」
「こう考えることもできるでしょうか。感受性の雲が流れるなかでは、水泳したり航海したりする「私」など一切存在しないのだ、ただ触発だけが浮遊しているのだ、と。感情は誰かによって感じ取られるものでも、何か同一性に結び付いているものでもなく、一つの雲が別の雲によって「触発される」ようにするものなのです。」(63−64頁)
「抽象とミニマリズムといういわゆる近代、現代芸術の主流は、純粋な想像力によっては芸術家が必要としている形式をえることができないということにその存在理由をもっている、そのことは私の眼には明らかなのです。事物をただ単に提示することはメディアが一般化し、思考が自閉化したために不可能となり、われわれが向かい合う映像や音声はそれらが計算されたものである限りすでに思考されているので、時間と空間はもはや所与として接近されるのではなく、思考として接近されるようにある、これが崇高の美学の基本的な条件です。」
「私はこの〔ハイデッガーのいう存在の〕後退によって芸術家は新たな科学技術を用いて別の形式を探求することができるようになると主張したいと思います。」(79頁)
「崇高の美学のうちに刻み込まれた諸能力の分裂は感性における複合化、複雑化のしるしなのです。・・・芸術は・・・感じ取られ注釈されなければならないのです。これらすべての文に共通する記号体系は存在していないので、これらの文によって形成される網の目はその複雑性が増すにつれてもろいものになっていきます。われわれが思い煩うべき唯一の合意は、この異質性を、この「感覚の不一致」を、強めていくような合意だけなのです。」(81−82頁)
こんにちは。
何だか、読んでいたら静かな気持ちに
なれました。
続き(か全体)が読みたい感じです・・・
Keikoさん、こんにちは。
無愛想な個人的メモってかんじなのに、コメントよせてくださってありがとう。うれしいです。
最近映画をみる余裕がなくて(よって書くネタもなく・・・)、読んだ本でもボチボチ書いていこうかなと思ってます。書評となるとこれまたシンドイので、簡単メモ程度にとどめておくかもしれません。
リオタールさんはフランスの哲学者。『ポストモダンの条件』という有名な本がありますが、これは個人的にはイマイチ。『遍歴』はよかったです。読みやすかったし。「雲」のたとえが気に入ったので、またいくつかピックアップするかもしれません。
コンバンハ、またきちゃいました。
私は、空より雲が好きなので、
雲の例えは特に気に入りました。
LINK張らせていただいたのですが、
宜しいでしょうか?
こんにちは、keikoさん。
子どものころは、文字通り、雲の流れる姿をいつまでも見ていたのですが、だからかな、わたしにとっても、雲が流れる様子は好きなイメージのようです。でもオトナになると、そんなふうに無駄に遊べる時間が減ってしまって、なんだかやるせなくなります。せめて想像のなかで、雲が流れる様子を楽しみたいですね。
リンクありがとうございます。よければわたしも張らせてくださいね。どうぞよろしくお願いします(あ、タイトルはMach mal Pause?だけでかまいませんよー)。
ところでKeikoさんとこのコメント欄にこの前から書き込んでいたのですが、うまくいかないみたいなのですよ〜。もう一度挑戦してみます。