ユリイカ

eureka
2000年、日
監督:青山真治
出演:役所広司
宮崎あおい
宮崎将


 ときどき、もしわたしが何かの事件の被害者であり生存者であるとしたら、この映画を見続けることはできるか、と問わざるをえないような作品に出会う。「ユリイカ」はそうした自問を抱かせる映画の一つであり、見るに耐えうる数少ない映画の一つだった。ずいぶん長い話だったように思うが、長さが気にならないほど時間は淡々と過ぎていった。
 バス運転手の沢井(役所広司)と二人の兄妹・直樹と梢は(宮崎将・宮崎あおい)、ある日バス・ジャックに遭遇し九死に一生を得る。兄妹の目の前で犯人(利重剛)は次々と乗客を殺し、最後は刑事(松重豊)に射殺された。三人にとってその出来事は、過去から未来へとあたりまえのように続いていくはずの日々を凍結させる瞬間だった。兄妹は両親から見捨てられ、学校に行くことをやめ、言葉を失った。沢井も自分の住んでいた町から離れ、逃げていった。
 かつてハンナ・アレントは、「暴力それ自身は言葉を発する能力をもた」ず、「暴力が絶対的に支配するところでは、〔……〕すべての物、すべての人間が沈黙せざるをえない」と述べた(『革命について』)。わたしたちは、社会的存在であるかぎりにおいて、言語の能力を与えられている。それはもっとも原初的な相互承認の手段であり、また、出来事に意味を与える方法である――少なくとも、意味付けという行為は、わたしたちの生にとって、不条理で無意味で残酷な現実と折り合っていくために必要な営みであるから。そしておそらく、言語が曲がりなりにも機能しうる社会空間と、言語が沈黙する絶対的な暴力状態の間は、断絶といっていいほどに懸け離れている。その間をつなぐ回路はあるのか、あるとすればどのような形でありうるものなのか――映画はこの荒野を描写しようとしていた。
 兄妹がたった二人で暮らしているのを町の人間はみな知っている。けれどもその子たちが自分たちと同じ世界に生きていないことも、みな知っている。言葉が介在しえないところに佇む子どもたちに近寄っていったのは、かつて同じ暴力に直面した沢井だった(もう一人、明彦(斉藤陽一郎)という、かつて九死に一生を得る体験をしたという大学生が登場して同居生活に入る。だが彼は、子どもたちのところに沢井のように近寄っていくことはできなかった)。沢井はあるとき別れた妻に、「他人のためだけに生きることはできるやろうか」と問いかける。それは、もう心に決めていることを確認し、誰かに背中を押してもらうためだけに発せられた言葉だったように思う。
 彼は、もう一度子どもたちをバスにのせ、凶行のあった場所から旅を始めようとする。旅のさなか、子どもたちは言葉を再び発する。殺人を犯した兄は「なんで人を殺したらいかんのか」と、沢井に向かって苦しげに声を絞り出した。妹は、海で拾った貝殻を自分に関係する人々になぞらえ、その人々の名を呼びながら、絶壁の上から一つづつ投げ捨てた。映画は、この子の名前を呼んだ沢井のもとに彼女が駆け寄ってくるところで終わる。
 見終わって、何かカタルシスをえるわけではない。カタルシスというには、あまりに微細な感情なのだ。暴力は一瞬であり、苦しみは永遠とまごうほどに続いていく。人間同士をつなげているものは脆く壊れやすく、それを修復するのはいかに難しいことか。それでも兄妹がふたたび言葉を発した瞬間は、たとえそれが絶望的に哀しい状況であったとしても、他者とつながる回路が現われ出た瞬間であり、修復がなされつつあることを予感させる瞬間だったのではないか。
(10.mär.2006)
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yu