アギーレ、神の怒り

Aguirre/der Zorn Gottes
1972 年 西独
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
出演: クラウス・キンスキー
ヘレナ・ロホ
ルイ・グエッラ


 観たいけどなかなか観る機会に恵まれなかったヴェルナー・ヘルツォークの映画をはじめて観た。予想以上に、おもしろかった。順番的には、「フィツカラルド」(1982年)→「キンスキー、我が最愛の敵」(1999年)→「アギーレ・神の怒り」(1972年)という順に観たのだけれど、今回は「アギーレ」について。
 映画の舞台は16世紀の南米、エルドラド発見という野望のためにスペイン軍に反逆したドン・ロペ・デ・アギーレは、数人の部下や捕虜とともに筏でアマゾンを下っていく。太陽の照りつける中、流れているのが分からないほどの速さで筏は進んでいく。鬱蒼とした川辺からは、姿を見せない原住民の吹き矢が放たれては部下が一人二人と殺されていく。アギーレの狂気の野望に支配された筏は、さいごは吹き矢と熱病と飢えのために彼を残して皆死んでしまう。死者を乗せた筏の上で、ただアギーレ一人が狂気の眼差しで「わたしは神の怒りだ」という独白を行うのである。
 アギーレに付き従った部下たちは、彼の野望を理解したから付き従うわけではない。その狂気と暴力を恐れて筏に乗り込んだ人々である。アギーレは世界から離れ、孤独の極北に立つ男である。その口から発せられる言葉を聞くものは誰もおらず、よしんばいたとしても、その言葉を理解することはできないだろう。映画を観ている観客にとってもまた、アギーレの野望を理解することは難しい。彼の最後の言葉を聞くのは観客なのだが、われわれもまたその言葉を理解することはできないのだ。だからこそ彼は「狂気」を表象した存在なのである。
 この映画を観て思い出したのがジェルジ・ルカーチの『小説の理論』である。ルカーチはここで、近代小説に現れる主人公を次のように特徴づける。すなわち、古代ギリシャの叙事詩で扱われる悲劇は共同体の運命的悲劇であったのに対し、近代小説の主人公は共同体と断絶しているところに特徴がある。彼の言葉・行動は他の人びとには理解されない。それゆえに近代小説の主人公は、必然的に狂人か犯罪者にならざるをえない、と。アギーレはルカーチの規定した近代人の一類型にほぼあてはまるだろう。
 ルカーチによると、近代小説の主人公は「神に見放された世界」に生きている。アギーレの独白「わたしは神の怒りだ」もまた、自分がもはや神とともにあった世界から大きく離れてしまったことへの自覚なのだ、と私は解している。つまり、この映画はきわめて(ある意味古典的な)〈近代人〉を扱ったものだといえよう。その点からすると、ある映画評論家が、ヘルツォークは「現実と夢の境がまだ判然としなかった中世の人間である」と述べているのは、わたしにとっては理解しがたい評価だった。
(Sunday, April 30, 2001)


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