The Mirror
監督: アンドレイ・タルコフスキー


 十代のころ、気に入っていた映画の一つにアンドレイ・タルコフスキーの「鏡」があった。――燃え上がる家、風になびく草、雪のなか少年の頭にふいに止まる小鳥、憂鬱そうな母の眼差し、湿り気を帯びた、水の気配を感じさせる映像――一つ一つのシーンの美しさに息を呑んだ。
 この映画は、記憶という、とても個人的で伝えようのないものを扱っている。
 主人公は声だけで姿はみえない。妻と離婚し一人息子をめぐって「わたし」と妻は口論する。息子の状況は、かつて「わたし」が置かれた状況と似ている。父が家を出ていってしまったあとの母が、記憶のなかから立ち現れる。現在と過去が入り混じり、そこに同時代の政治的事件の記録映像が挿入されていく(政治的出来事の挿入は、唯一、「わたし」の記憶を客観化させる方法だ)。
 今の「わたし」が置かれている状況が、過去の記憶を呼び覚ましていく。
 母は憧憬と哀れみの対象だ。父は姿を現さない。父の詩が「わたし」によって読み上げられる。母を捨てた父は、妻と別れた「わたし」と重なる。「わたし」を捨てた父は、息子と別れた「わたし」に重なる。「わたし」は父にもなり息子にもなって、記憶のなかでつながり重なっていく。
 同じように、母と妻もまた一つの姿に溶解していく。けれども、「わたし」が彼女たちに重なりあうことはない。母(と妻)が何を考えていたのか、何者であったのかは、実は分からない。「わたし」は母をいくら思い出しても、「鏡」に映った母の姿しか見えない。
 母とはそういうものなのだろうか。「息子」の語る「母」は、つねに「鏡」に映った影でしかなかったのだろうか。この映画をみると、いくつもの解けない思いがよぎり、どうにも表現しがたい気分に駆られる。少なくともわたしにとっては、まるっきり自己投影できる映画でもなく、だからといって、突き放して見ることもできない映画だ。ただ、映像の比類なき美しさに誘われて、わたしもまた自らの記憶の海に沈みこんでいく。
(Wednesday, March 21, 2001)


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