39 刑法第三十九条

1999 年 日
監督: 森田芳光
出演: 鈴木京香
堤真一
岸辺一徳


 刑法第三十九条「心身喪失者の行為はこれを罰しない。心身耗弱者の行為はその刑を減刑する」
 映画において、殺人事件の被告・柴田真樹(堤真一)は多重人格者であると認定されることから、弁護士・鑑定人・検察官は刑法第三十九条の適用に傾いていく。精神医助手小川香深(鈴木京香)は、被告との鑑定の時間を通じて、彼という人間をまるごと知ろうとする。彼女の出した結論は、被告に刑法第三十九条を適用しないことだった――。
 (ちょっといいわけになるけど、映画自体が複雑なストーリーになっていたので、あまり内容を詳しく書くのは控えたい。これだけ登場人物を出していてるのに、ひとりひとりの人間が丁寧に描かれていて、非常に見ごたえがあった。
 以下では、この映画のテーマが「刑法第三十九条」なので、この法律そのものを中心としてコメントを書いていくことにする。)
 ドイツ語では「法」と「正義」はどちらもRechtである(ちなみに「権利」の意味もある)。法は正義である。けれども、「法」が体現する「正義」は、どの程度のものなのか。絶対的な正義があるという前提で、その絶対的な正義を体現しているのか。それとも、ある社会秩序を維持するというかぎりでの「正義」にとどまるのか。
 前者の「正義」はさしあたり脇に置いておくとして、少なくとも法は、ある社会の秩序を維持し、それを守るよう社会構成員に強制する機能をもつ。法は社会構成員のもつ「権利」を擁護し、同時に、その権利を行使するさいに伴う「責任」を負うように強制する。
 具体的にいえば、わたしたちは、形式的には、自分の意志で契約を結ぶことができるし、自分の権利が侵害されたときはそれを裁判所に訴えることもできる。他方、契約に違反したり、他人の権利を侵害したときは、その罪を負わなければならない。つまり、権利をもつことと責任を負うことは一体となっている。
 ある社会構成員のなかでこの仕組みから除外されているのが、こどもと精神疾患者である。原理的にかれらには権利が与えられていない。それゆえ責任を負うこともない。
 慣習法や法の成り立ちを調べれば、そのようになってきた歴史的な理由は説明されうるのだと思う。ただ、いったん刑法第三十九条のような形で明文化されると、被告の精神状態が危ぶまれる事件になったとき、法を実際に運用する側(弁護士・検察官・裁判官)はまず、「この条文を適用できるかどうか」を問題の焦点とせざるをえない。条文が適用されると、それは「犯罪」ではなくなる。映画のなかでも、弁護士かだれかが遺族に向かって、「事故に遭ったものと思ってください」と言い放つ場面がある。「心神喪失者」と認定された者の「犯罪」は、権利をもたない人間による行為だから、熊やライオンに殺された場合と変わらないということだ。
 ここで二つの問題が浮かび上がってくる。
 一つは、熊やライオンのように檻に閉じ込められていたわけではない人間が犯罪を犯したあと、いやじつはこれは人間ではなくて熊やライオンと同じなんですよ、といわれたところで、犯罪被害者は納得できないという不条理。この〈納得のできなさ〉は一体どこに由来するのだろう。
 もう一つは、あなたは権利をもち責任を負える人間ではない、したがってあなたの行為は犯罪ではないと宣告される側の問題である。この宣告は、「心神喪失者」と認定された被告自身が、自分の行為を罪と認め、罰を受け、人間として罪とともに生きていく、あるいは死んでいく〈可能性〉が断ち切られることを意味する。
(精神を病んだ者が犯罪行為をしても罪にならないなんて理不尽だ!というありがちな意見は、少なくともこの映画の主張ではないはずだ。)
 このふたつの問題は、実は法そのもの――ここでは刑法第三十九条――に原因がある。精神的に危ぶまれる状態にある人間の犯罪を前にして、法はあたかも、彼女/彼らがもとから「心神喪失者」であったかのようにみなそうとする。つまり、実際には、法が「心神喪失者」をつくりだしている。
 犯罪被害者の〈納得のしがたさ〉の根拠はここにある。もともと狂った人間の犯罪行為だから無罪なのではなくて、法によって「心神喪失者」と認定されるから無罪になるのだ。それゆえ、不条理を生み出しているのは、まさに法そのものということになる。
 犯罪加害者にしても、法によって「心神喪失者」と認定された時点から、彼はそれ以前から「心神喪失者」であったかのように見なされることになる。もとから権利も与えられていなければ、責任も負わない存在へと変質させられる。もしも、罪を負いうることが〈人間の条件〉であるとするならば、この条文は、「罪を負わなくていい」と宣言することで、「心神喪失者」もまた人間でありうる/ありえた可能性を一切排除してしまう。
 刑法第三十九条は、加害者を一人の人間としてみなさないと宣告することで、加害者自身をいやしめ、同時に、罪を責め、あるいは赦すこともありうる対象としての加害者を奪う点で、被害者をもいやしめる。この二重の意味で、この条文は問題をはらんでいるのではないだろうか。
(January 6, 2002)


sa